LivingRoom[シュクショウサイセイサンチュウ]

試用運転中。
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | | - | -
又吉直樹『火花』
又吉 直樹
文藝春秋
¥ 1,296
(2015-03-11)

又吉直樹『火花』読了。
実のところをいうと、この本を読むことになろうとは思ってもみなかった。

又吉さんはテレビに出ていたらチャンネルを変える手を止めてしまうし、好きな芸人さんの一人ではあるのだけれど、読みたい本が他にもごまんとあるなか、正直に言って食指が動く本ではなかった。
しかしある日父から、「知人に借りたのだけど、◯◯(私の本名)が読んで面白かったら俺も読むから」と謎なミッションとともに渡されたので読んでみた次第。

初めて読む作家についてはどうしてもそうなってしまうのだけど、前半はこの作品との距離をさぐりながら読み進めていく中で、うーむ、これはどうしたもんかなあと思いながらページをめくることになった。

主人公・徳永が神谷のことを「師匠」だと思うに至るその過程がよく飲み込めなかったこと。 そして、その理由でもあると思うのだけど、神谷の人となりがなかなかつかめなかったこと。

前半戦、この物語との距離がはかれなかったのは、そんなところにあるんだろうと思う。 けれど、物語も半ばに差し掛かって、突然の既視感に襲われた。

いいだけ飲んだ帰りに、なんだかよくわからないが尊敬する先輩と歩く夜の街の空気や。

後から出てくる優秀な後輩たちに対する焦燥感。

そして、先が見えないのに何も変わることなくグダグダと足踏みしている自分。

なんか、私、こういうの知ってる。
そう思った。

このブログを始めた頃私は大学院生で、いまは(主人公の相方のように)全力でそこを逃げ出して違う道を歩んでいるわけだけれど。

あの頃の全能感とともにある羞恥心や、全精力を傾けてやっていたことが一瞬で覆される恐怖感だとか。

そんなヒリヒリとした感覚は、もしかしたら、芸人であれ芸術であれ研究者であれ、常識を覆すことに挑む「表現者」であることの(もしくは「表現者」になるための)背景として、共有されているものなのかもしれない。

主人公徳永は、10年間やってきた漫才を辞める決心をして、こう呟く。


必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。(130頁)


そして、それを知れただけでも、この世界に入って良かったのだ、と。

いまは、その世界からはるか遠くにいる私だけれど。
大学にいた10年間を無駄だとは思っていない。
思いたくないだけかもしれない。

でも、神谷も言っていたように、漫才師であろうという自覚がない者こそが、漫才師なのかもしれない。

たとえ自分が立っているところがどんな舞台であっても、「リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者」でありたい。
そんな風に思う。

最後に、この作品にとって芥川賞を得たことが良いことだったのか、そうではなかったのか。
両面あるのだろうなあ。

賞のおかげでこの物語が必要な人のところにちゃんと届けることができたという面がある一方で、芥川賞受賞作という肩書きがまとう余計な情報が、この作品を純粋に楽しむことを邪魔してしまっているような、そんな気もした。
| どくしょ | 11:50 | comments(0) | trackbacks(0)
三浦しをん『舟を編む』
三浦 しをん
光文社
¥ 1,620
(2011-09-17)

三浦しをん『舟を編む』読了。

三浦さんの作品には彼女のデビュー当時に出会って、うっわ、久々に面白い作家さん見つけたわーとひとり興奮していたのを覚えている。

その割にはそのデビュー作の『格闘する者に○』と少しあとの『ロマンス小説の七日間』しか読んでなくて、おそらくは十年ぶりの三浦作品。

『格闘〜』や『ロマンス〜』では不思議なリズムの文体にあれよあれよという間に物語に引きずり込まれるその感覚がとても新鮮だったのを覚えているけれど、本作でも独特のリズムは健在で、でもきっと、作品毎にリズムや文体はしっかりカスタマイズしているのだなあということがしっかり見て取れて、彼女の実力のほどがよくわかる作品だった。

ただ、辞書編集部という場所がら選ばれたのであろう少々時代がかった地の文やその独特のリズムというものが、少し災いしているところもあったのかなあという印象。 主人公の馬締(まじめ)の漱石作品に出てくるようなまどろっこしい言い回しを際立たせるなら、その他の地の文はもう少しスピード感があってもよかったのかなあというか。

あ、ここにはわたくし的に馬締がたいへん気に入ったので、彼のキャラをもっと全面に出して欲しかったという個人的な欲も入ってます。

そして、その馬締に代表されるそれぞれのキャラ立ちの良さが本当に気持ち良い。
それぞれのキャラの視点でオムニバス風にリライトしても面白いんじゃないかなあとか。
そりゃ漫画化や映像化もしたくなるというものだ。

さて。
少し枝葉にばかり話が行ってしまったけれど、本作の魅力は何と言っても「言葉」に対する真摯さ、これにつきるんだろう。

辞書の編纂というとても特殊な世界を描いているから、というのはもちろんあるけれど、そこかしこに作者自身の「言葉」への態度が見え隠れする。

「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締と会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです」(212頁)

これは馬締の奥さんとなる香具也の言葉なのだけれど、板前である彼女はこう続ける。

「おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力は、そういうことなのだと、辞書作りに没頭する馬締を見て気づかされました。」(213頁)

そうなんだよなあ。本当に。
客という立場であれば、それを見て感じて、それだけでいい。
でもプロフェッショナルであるためには、それを言語化できる能力というのがどんな職業でも必要なのだ。
なぜなら、仕事とはインプットしたものをアウトプットすることだから。
必ず他者に「伝える」ことが必要なのだと、思う。

だから昨今の人文社会科学系への見直し論などは、見ていて本当に歯がゆく、さみしく思ったりしている。
まるで言葉や言語といったものが蔑ろにされているような気がして。

そして個人的に快哉を叫びたいのは、松本先生に語らせる次のような言葉だ。

「公金が導入されれば、内容に口出しされる可能性もないとは言えないでしょう。また、国家の威信をかけるからこそ、生きた思いを伝えるツールとしてではなく、権威付けと支配の道具として、言葉が位置づけられてしまうおそれもある」
「言葉とは、言葉を扱う辞書とは、個人と権力、内的自由と公的支配の狭間という、常に危うい場所に存在するのですね」(226頁)

言葉の政治性(※)ということに、これほど明確に触れてくれるとは思ってもみなくてびっくりした。
こういうところにもしっかり目が届いているところが、信頼がおけるなあとしみじみ思ってしまったことです。

(※)私が学生のとき影響を受けた著書というのが何冊かあるのだけど、その中の一冊がイ・ヨンスクさんの『国語という思想 近代日本の言語認識』で、これがまためちゃくちゃエキサイティングで、それどころか嫉妬すら感じて(何様)、ああ、こんな論文が書きたいなあと、本気で思っていた。(久々に検索してみたら岩波現代文庫から再販されてるのな。岩波、やぱいい仕事するなあ。)私が専門にしていたのは全然別のテーマなのだけど、すごくすごく参考になった。
本書を読めば「国語」というものが(本質的に)いかに作り上げられるものであるのかがよくわかります。
| どくしょ | 21:21 | comments(1) | trackbacks(1)
角田光代『この本が、世界に存在することに』
実は初・角田光代。

角田さん、レビューサイトなどではよく話題に上がるし、本屋でもよく手に取ったりもしていたのだけど、なぜかいままで手をつけることができなかった作家さんのひとりです。

あらすじやレビューを読んだだけで、これは私のための本ではないのだと思っていた。

それはそれで外れてはいないと思うのだけど、その実、自分の心の闇まであばかれてしまいそうなのが、嫌だったんだろうと思う。

「これは軽いし読みやすいよ」
妹から勧められて読んでみたこの短編集は、読後感も悪くないし、さらりと読めてとても好印象だった。
食わず嫌いはやはりいかんなあ。

特に気に入ったのは「彼と私の本棚」と「初バレンタイン」かなあ。

ひとのおうちにお邪魔したとき、一番気になるのは本棚だ。
CDラックも同様に気にはなるけれど、その人の本質…というと大袈裟かしら。
でも少なくとも、その人と合うかどうかというのは、本棚を見ればわかる、ような気がしていて、それはそうそう裏切られたことはない。

(などと書いているが、本[のみならず音楽までも…!]の趣味が全く合わない人と結婚している現状を考えればそれは必要十分条件ではなかったらしい。)

だから、私とは全く共通項のない登場人物たちであるにもかかわらず、この短編集に出て来るそれぞれの「本」にまつわるエトセトラは、なぜかとても馴染みが深く、ああ、そうだよねそうだよねと、するりと私の中に入ってきた。

売り物の本にうずもれるようにして店主が座っている学生街の古本屋の空気。

本棚の構成を見たときの相手にめり込んでいく加速度。

自分の大切な本をプレゼントするときの高揚感と後ろめたさ。

そんな本にまつわるエトセトラこそが、この本のキモなのだ、と思う。

いまは『さがしもの』とタイトルを変えて新潮文庫から出ているようだが、単行本のこのタイトルと装丁が秀逸なので、こちらの方で読んで良かったなあと思う。

図書館に単行本の方しかなかっただけの話なのだけど。

良い本でした。
| どくしょ | 14:18 | comments(0) | trackbacks(0)
秩序からの逃走 SWITCH達人達 木皿泉×佐藤健 その3/『木皿食堂2』
『木皿食堂2』を読むきっかけになったのは、昨年11月に放送された、NHKの『SWITCHインタビュー達人達 木皿泉×佐藤健』。

その全てが本当〜に面白くて、面白いところだけを書き起こそうと思ったら、気づけばほぼ丸々書き起こしていたわけで。

『木皿食堂2』にはそのインタビューが丸ごと収録されている。

改めて質量を持った書物の上に書き起こされたそれは、映像で追うのとはまた違った発見をたくさんたくさんくれるテキストだった。

前のエントリにも書いたように、このインタビュー以外にも私にとっては魅力的な言葉が満載で、それについてもいつか書きたいとは思うけれど、今日はやっぱり、佐藤健というミステリを木皿泉さんのテキストを補助線にして少しだけ解読してみたいと思う。

いや解読なんてできないのだけど、木皿さんのテキスト群のおかげで、謎がなぜ謎なのかってところまでは進めたのかなと思う。

以下、引用タグ等使えなくて大変読みにくいテキストになってますが、よろしければどうぞ。


本書のエッセイや講演の収録をふむふむととても興味深く読み進めて、あとがきまで読んだところでまたひっくり返ったよね。

木皿さんは「わけても佐藤健さんには強い刺激を受けた」と、ドゥルーズを引用しながら佐藤健をこう評する。

「組織にも属さず、どんどん変化する。すさまじいスピードで逃げる能力。」(235頁)

さらっと書いちゃったけども、えっと、佐藤健×ジル・ドゥルーズ。

ええええええええ。
すっげえな。
ええええええ。

一気に頭が湧いたよね。

興奮ついでに、ドゥルーズの引用部分も再引用しておく。


人間-男は、あらゆるマテリアルに自身を刻みつけようとする統合支配的な表出の形態として現れる。いっぽう、女たち、動物たち、或いは分子群はつねに〔秩序-組織からの〕逃走線という成分を持つのであり、それは秩序形成化を逃れてゆく。人間-男であることの恥ずかしさ、これ以上に、書くことの理由があるだろうか?(234頁)


これを、まるで剣心を演じた佐藤健と重なる、と。

その昔、ドゥルーズのテキストには何度も挑んで敗れ続けた私なので、まるっと理解することができたとは到底言えないけれど、それでもこの木皿さん的佐藤健評には、唸ってしまった。

ここで木皿さんが佐藤健に引きつけて考えているのはもちろん、女-動物-分子群の系譜である。

妻鹿さんが〔女〕でありながら※、「人間-男であることの恥ずかしさ」から書くことを続けているように、佐藤健は〔男〕でありながら、「秩序-組織からの逃走」を図っている。

そう理解してよいだろうか。

木皿さんが、佐藤健に対して当て書きができなかった、すなわち佐藤健が「ヘン」である理由も、この辺にあるのではないか。

本書の第?章「物語は誰のものか」で、木皿さんは自分が脚本を書くときのキャスティングの重要性について述べている。


頭の中で考えたことを書くわけですけど、人間がやるってことを絶対忘れちゃいけないので、あまり頭で考えるだけじゃなくて、その役者さんがやってるってすごくリアルに考えた方が、生きてるセリフが書けたり、リアルなアクションもできると思うんですよ。だから、何もないところから書くのは私は辛いです。ある程度キャスティングを想定してないと。(中略)その俳優さんの意外性みたいなところを書きつつ、その人の本質に迫れたらおもしろいものになってるんですよね。(171〜172頁)


こんな風におっしゃる木皿さんなので。
そら、当て書きできなかったら困っただろうなあ。と。

SWITCHインタビューの中で、木皿さんが当て書きできなかった理由の一つとして、佐藤健の演技を「受けの芝居」だと評している部分がある。

インタビューでは、そこからリアクション芸の話に流れてしまっているのだけど、望むらくはここをもう少し掘り下げてほしかったなあという印象。

これは先日の泯さんの言葉にもつながりそうな気がしているのだけど、たけさんの芝居って、なんというか、その役をインストールするって言葉がぴったりくるような、そんな芝居な気がしていて。

いや、もしかしたら演じるというその行為自体が、そういうものなのかもしれないけれど、外側にあるものを演じるのではなくて、まずは飲み込んで咀嚼して、「佐藤健」の身体をその飲み込み咀嚼したものから作り直して、それで演じているといか。

とにかく、細胞レベルで変わってしまっているように見える。

これって、「主体」であろうとする限りとても難しいことだと思う。
容れ物、すなわち徹底的に「客体」としてあるからこそ、「受け」でいられるのではないか。

そして、「受け」であればあるほど、セオリーや、こうであろうという既定路線からは逸脱することになる。

なぜなら、セオリーとはもともと決まったもの、すなわち秩序そのものだからだ。
「受け」であることはアプリオリに、そういった秩序を自らの中に置くことを排除する。

(例えば、斬りつけられる前にその太刀を受けることは不可能なわけで、斬りつけられてみなけりゃどう受けるかなんて本人にとってもわからない。)

SWITCHインタビューの最後に木皿は言う。


自分の想像を超えたところのことをする人がいるっていうのは、ホントに頼もしいことなんですよ。とても嬉しいことだし、すごく希望のもてることなんですよ。(137頁)

こちらが想像している以上にいろいろなことを考えているけど、その考えに囚われないで生きてる人なんだっていうのはよくわかりました。(中略)これだけ、話すと、できれば今度は真剣勝負してまけたくないなって思いますね。今度やるときは絶対負けねえぜ!っていう感じで。(笑)。(138頁)


秩序形成化を逃れる存在としての佐藤健。

飽きっぽい私が、こと彼に関しては興味がつきないのは、そういうことなんだろう。

※とはいえ「木皿泉」としては、和泉努さんとの共同執筆なのでそもそもが両性をまたがった存在であるのだけど。…あ、急いで付け加えると、生物学的性別はここではあまり重要ではないです。たぶん。
| どくしょ | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0)
「良い」ということ。
「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係と言うのが、俺だけにしか分からない、と読者に思わせる作品です。(中略)一人一人は『俺だけ』という感じに思うのですが、そういう人がたくさんいる。そういう作品を書く人が、時代が経ってもなかなか滅びない作家と言えます。」(吉本隆明『真贋』65-67頁)

私が影響を受けた作家、というと大げさだけれど、そこから得られるものはすべて得ようと思って読める書き手というのはそう多くはなくて、そのなかの動かしがたい一人が村上春樹、だったりする。

でも私は、村上春樹がなぜここまで「売れる」のかが、さっぱり理解できなかった。

彼の作品のなかでも私にとって特別な作品は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』なのだけれど、私はこの作品に出逢ったとき、ただ理解できたのは、「ここにはとても大事なことが書いてある」という、そのことだけだった。

いま思うと少し恥ずかしいけれど、教科書を読むように付箋を貼りながら、繰り返し繰り返し読んだ。

でもそれは、あくまでも私にとって大切なもの、なのだ。
そのときの私が抱えていたものは、どう考えてもとても個人的なもので、でもこの作品は、その私にしか理解できない場所にあるそれをぐらぐらと揺らした。

その個人的な何かがまさか、これほどたくさんのひとびとが熱狂するほどの汎用性を持っているとは、とても思えなくて、皆がこの作品のどこに惹かれて読んでいるのかということが、本当に不思議で仕方がなかった。

そのとき村上さんを教えてくれた人も、「軽く読み流すこともできるし、おしゃれに読むこともできるから、まあ、とにかく読んでみてよ」と言っていたのだけれど(そして私はその人のことがとても好きだったのだけれど)、これのどこがどう軽くておしゃれにも読めるんだ、とひとりごちながら読んだのを覚えている。

そんなとき、吉本隆明の『真贋』を読んだらまさしくその回答が書かれていて、なるほどそういうわけかと、ただただ、びっくりしたのだった。

それからというもの、冒頭の吉本さんの言葉が、私にとっての作品の良し悪しをはかるスケールになっている。

えっと、これって私にしかわからないんじゃ…?

「そういう人がたくさんいる」かどうかは、ひとまずのところはどうでもよい。
そう思えた作品が、私にとっては「良い」ものなのだ。

このひとは、どうして私のことがこんなにわかるんだろう。

文字にすると痛いひとだなあ!完全に。
でも読んでいるときは、観ているときは、本気でそう思っている。
単なる勘違いにすぎないかもしれない。
その確率が高い。
けれど、そう思わせてくれたひとは、そういう作品は、私にとって大切な、価値のあるものなのだ。

それは文学に限らず、音楽や映画、エッセイ、ドラマ、なんでもよいし、もしかしたら俳優だったりミュージシャンだったり、そういうひとたちの存在自体が「作品」と呼べるのかもしれなくて、だとしたら「作品」と呼べるものすべての判断基準はそこにある、と思っている。

最近早川義夫の『生きがいは愛しあうことだけ』を読んでいて、そのことをふと思い出したので、書きとめておきたいと思ったのでした。

(2014.11.1追記)
吉本 隆明
講談社インターナショナル
---
(2007-04-01)

| どくしょ | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0)
『働き方は「自分」で決める』
全く意図しないところで「佐藤健」の文字を発見すると、びっくりして漫画みたいに二度見しちゃう自分がおかしい。

古市憲寿氏の『僕たちの前途』が文庫化されたので入手。

彼の文章は社会学的見地を得たいからというよりはフィールドワーク及びビブリオグラフィのようなものとして拝読している。

ひとつの枠というものがあったとして、それを意識しながら、それでいてその枠の「内」からの視点でしか書けないものというのがあって、それって単なるルポやエッセイとはやはり違った意味を持っていると思うのだけれど、古市氏の物言いはなんというか学問とそういうものの境界を行き来しながらあるような気がして、ちょっとおもしろい。

閑話休題。
(どっちが閑話ですかていうツッコミはなしの方向で。)
これをネタバレというのかなんなのかわからないけれど、いちおう以下たたみます。(笑)
続きを読む >>
| どくしょ | 20:46 | comments(0) | trackbacks(0)
予告された殺人の記録
少し前になるのですけど、ガルシア・マルケス『予告された殺人の記録』(新潮文庫、1997年)を読みました。マルケスの生まれた村であった事件をもとにして書かれた中編小説。じっさいの事件に取材した作品で、かつ、その手法もジャーナリスティックなので「小説」という定義が適切であるかどうかはよくわからない。けれど、間違いなくいえるのは本作が溜息がでるほど、緻密に構成され、練り上げられた作品であるということ。

「私」がその事件を数十年経ってから調査しなおした記録という体裁になっていて、裁判記録を読んでいるかのように淡々と事件の外堀が埋められていくのだけど、この前半部分で「事件のあった当時」と「語られる現在」というタイムラグがじゅうぶんすぎるほどに提示されたあと(実はここまで読み進めるのが少し時間がかかった。ほんの十数ページなのだけど。)、中盤以降ストーリィは突如として色付き始める。

事件を立ち回ったアクターたちの数十年後の姿とそこから見えるそれぞれの「数十年間」。そしてカメラはもういちど事件当日のひとびとの息遣いに寄り添っていく。マイクロフィルムを読み直していくような緻密な作業から、突如としてカラーフィルムのなかに投げ込まれたかのような臨場感へ。読了後はしばし、南米のまとわりつくような濃ゆい空気に包まれていた。
| どくしょ | 12:28 | comments(0) | trackbacks(0)
はにわくろぼ&なな
はにわくろば&なな
韓国語版『はちみつとクローバー』&『NANA』。

ちなみに「はにわくろぼ」てのはタイトルのハングル読み。
「はに」=「ハニー」
「わ」=「と」
「くろぼ」=「クローバー」
ですね。きっと。
| どくしょ | 23:42 | comments(3) | trackbacks(0)
Life
終わりまであとどれくらいだろう―A day in the garden of cherry
『終わりまであとどれくらいだろう―A day in the garden of cherry』
桜井 鈴茂

6人の男女が行き交う東京のある一日の淡々とした描写。
まわされたカメラはただまわるだけ。
終わりまで読んでも、すくいあげてくれる仕掛けはいっさい用意されていない。
終わりまで読んだら、そうか、このタイトルがそのまま「日常」なのだとふにおちる。ただそれだけ。

行きつけのラーメン屋がある日突然消えていたときの絶望だとか、
飲みすぎた日の朝の暴力的なまでの倦怠感のなか、
ときには、胸の奥で小さく「アハ」って笑う声が聞こえたりする。
救う「べき」日常も、救われる「べき」日常もないんだ、ほんとうは。
誰かの存在を風景にして、同時に誰かの風景になりながら、
カメラはずっと回っていく。

終わりまであとどれくらいだろう。
| どくしょ | 10:15 | comments(0) | trackbacks(0)
最近の読了本
榎並重行『ニーチェって何?―こんなことをいった人だ』(洋泉社新書y、2000年)
湯山光俊『はじめて読むニーチェ』(洋泉社新書y、2005年)

:並行して読んでいたのでほぼ同時に読了。紹介本というのは、けっきょくのところそのひとなりの切り取り方なのだろうけれど、その提示の仕方によってはこれほどまでに印象が異なるものなのだなぁということを改めて感じたのであります。

榎並さんのはニーチェの言葉がたくさん引用されていて、ニーチェ自身の言葉の選び方やリズムを感じ取ることができました。だけど、要所要所で出てくる「脳死問題」に関する言及は、あまりうまく機能していないのではないかなぁ。ニーチェで現代の問題を読み解くとこういうことができますよという具体例なのだろうけれど、この本を手にとる人は(私も含めて)応用問題はあまり求めていないのでは。

湯山さんの方は「第1章 フリードリッヒ・ニーチェ年代記」がたいへんありがたかった。ニーチェという「ひと」そのものに、もう少し深く立ち入ってみたいと思わせてくれました。はじめからあとがきの最後のひとことまで、読者に真摯に向かっているところがすばらしいです。
| どくしょ | 02:46 | comments(0) | trackbacks(1)
 1/2PAGES >>
CALENDAR
S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< December 2019 >>
SELECTED ENTRIES

CATEGORIES

ARCHIVES

RECENT COMMENT
  • 三浦しをん『舟を編む』
    藍色 (10/06)
  • NHK総合「SONGS」V6〜僕らが歩んだ20年〜
    かけい (08/04)
  • NHK総合「SONGS」V6〜僕らが歩んだ20年〜
    夏生 (08/03)
  • 聴く/訊くということ。 SWITCH達人達 佐藤健×木皿泉 その2
    かけい (11/24)
  • 聴く/訊くということ。 SWITCH達人達 佐藤健×木皿泉 その2
    夏生 (11/23)
  • 聴く/訊くということ。 SWITCH達人達 佐藤健×木皿泉 その2
    かけい (11/23)
  • 聴く/訊くということ。 SWITCH達人達 佐藤健×木皿泉 その2
    みかん (11/22)
  • 聴く/訊くということ。 SWITCH達人達 佐藤健×木皿泉 その2
    かけい (11/22)
  • 聴く/訊くということ。 SWITCH達人達 佐藤健×木皿泉 その2
    みかん (11/22)
  • 聴く/訊くということ。 SWITCH達人達 佐藤健×木皿泉 その2
    かけい (11/21)

RECENT TRACKBACK

LINKS

PROFILE