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又吉 直樹
文藝春秋
¥ 1,296
(2015-03-11)
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又吉直樹『火花』読了。
実のところをいうと、この本を読むことになろうとは思ってもみなかった。
又吉さんはテレビに出ていたらチャンネルを変える手を止めてしまうし、好きな芸人さんの一人ではあるのだけれど、読みたい本が他にもごまんとあるなか、正直に言って食指が動く本ではなかった。
しかしある日父から、「知人に借りたのだけど、◯◯(私の本名)が読んで面白かったら俺も読むから」と謎なミッションとともに渡されたので読んでみた次第。
初めて読む作家についてはどうしてもそうなってしまうのだけど、前半はこの作品との距離をさぐりながら読み進めていく中で、うーむ、これはどうしたもんかなあと思いながらページをめくることになった。
主人公・徳永が神谷のことを「師匠」だと思うに至るその過程がよく飲み込めなかったこと。 そして、その理由でもあると思うのだけど、神谷の人となりがなかなかつかめなかったこと。
前半戦、この物語との距離がはかれなかったのは、そんなところにあるんだろうと思う。 けれど、物語も半ばに差し掛かって、突然の既視感に襲われた。
いいだけ飲んだ帰りに、なんだかよくわからないが尊敬する先輩と歩く夜の街の空気や。
後から出てくる優秀な後輩たちに対する焦燥感。
そして、先が見えないのに何も変わることなくグダグダと足踏みしている自分。
なんか、私、こういうの知ってる。
そう思った。
このブログを始めた頃私は大学院生で、いまは(主人公の相方のように)全力でそこを逃げ出して違う道を歩んでいるわけだけれど。
あの頃の全能感とともにある羞恥心や、全精力を傾けてやっていたことが一瞬で覆される恐怖感だとか。
そんなヒリヒリとした感覚は、もしかしたら、芸人であれ芸術であれ研究者であれ、常識を覆すことに挑む「表現者」であることの(もしくは「表現者」になるための)背景として、共有されているものなのかもしれない。
主人公徳永は、10年間やってきた漫才を辞める決心をして、こう呟く。
必要がないことを長い時間をかけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。(130頁)
そして、それを知れただけでも、この世界に入って良かったのだ、と。
いまは、その世界からはるか遠くにいる私だけれど。
大学にいた10年間を無駄だとは思っていない。
思いたくないだけかもしれない。
でも、神谷も言っていたように、漫才師であろうという自覚がない者こそが、漫才師なのかもしれない。
たとえ自分が立っているところがどんな舞台であっても、「リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者」でありたい。
そんな風に思う。
最後に、この作品にとって芥川賞を得たことが良いことだったのか、そうではなかったのか。
両面あるのだろうなあ。
賞のおかげでこの物語が必要な人のところにちゃんと届けることができたという面がある一方で、芥川賞受賞作という肩書きがまとう余計な情報が、この作品を純粋に楽しむことを邪魔してしまっているような、そんな気もした。